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【HIEプレップスクール】大谷翔平は渋沢栄一から何を学んだか?――道徳経済合一説の重要性――【前編】

      2024/07/23

皆さん、こんにちは!

両国校国語科講師の福島です。

2024(令和6)年は渋沢栄一と大谷翔平選手が大きく注目される年になりました。

2024年7月3日から、渋沢栄一は新1万円札の顔(肖像)を担うことになりました。

一方、大谷翔平選手は2023(令和5)年12月に大型契約でロサンゼルス・ドジャースに移籍し、2024年3月に発覚した元通訳による違法スポーツ賭博事件のショックを乗り越え、現在、MLB(Major League Baseball)で活躍を続けています。

大谷翔平選手は、渋沢栄一の『論語と算盤』を読んで、大切なことを学んでいます。

それは何でしょうか?

これは高校生の皆さんにとっても大変大切なことです。

大学入試において現代文や小論文や面接などで、渋沢栄一について問われることがあるかもしれません。

特に経済学部や経営学部を受験する方は注意が必要です。

しかし、大谷翔平選手が渋沢栄一から学んだことは、大学入試だけでなく、現代社会の大きな問題とも深く関係しています。

そこで、今回はこのことについて考えていきます。

このブログを読むと、まず、渋沢栄一の考え方がわかります。

つぎに、この考え方の具現化の1つが大谷翔平選手の活動であることがわかります。

さらに、この考え方が今後ますます重要なものになってくることがわかります。

それでは、渋沢栄一の『論語と算盤』から見ていきましょう。

1 渋沢栄一『論語と算盤』の思想

渋沢栄一(1840~1931、号は青淵)は「日本資本主義の父」と呼ばれ、2度もノーベル平和賞の候補になった実業家です。

実業界だけでなく公益事業・社会事業・国際親善にも大きな足跡を残しました。

その業績は、経営学者のピーター・ファーディナンド・ドラッカー(1909~2005)からも高く評価されました。

渋沢栄一は、5歳頃(満年齢、以下同様)から父・市郎右衛門(1809~1871、号は晩香)によって学問や武道を習い始め、従兄の尾高惇忠(1830~1901、号は藍香)を通して四書五経(儒教の経典)などの古典を読むようになり、陽明学も学びました。

このような学びが『論語と算盤』の素地となっています。

『論語と算盤』は、渋沢栄一の講演の口述筆記を梶山彬がまとめたもので、1916(大正5)年に東亜書房から出版されました。

渋沢栄一の『論語と算盤』における中心的な思想は「道徳経済合一説」です。

1909(明治42)年1月、東京瓦斯会社(現・東京ガス)の役員であった福島甲子三(かしぞう)が、古希(70歳)のお祝いとして渋沢栄一に3巻の書画帖を贈りました。

この書画帖に画家の小山正太郎の絵がありました。

それは、「論語、算盤、朱鞘(しゅざや)刀剣、シルクハット」を描いた絵「論語と算盤図」でした。

論語は道徳、算盤は経済、朱鞘刀剣は武士道の精神、シルクハットは紳士の礼儀を表しています。

この絵を見た渋沢栄一と三島中洲の会話が『論語と算盤』「処世と信条」の冒頭に出てきます。

三島中洲(1830~1919、名は毅、字は遠叔、中洲は号)は、法律家で陽明学の漢学者でもありました。

1877(明治10)年10月に「漢学塾二松学舎(現・二松学舎大学)」を東京麴町一番町に開校し、漢学・東洋学の発展に尽力しました。

1878(明治11)年12月、岡山県高梁市に「第八十六国立銀行(現・中国銀行、本店は岡山市)」が設立されました。

この銀行の設立に際して、三島中洲は渋沢栄一に詳しいヒアリングを行っていて、この頃に渋沢栄一との交流が始まったようです。

渋沢栄一は1869(明治2)年11月に29歳で明治政府に仕え、民部省租税正(後に大蔵少輔事務取扱)となり、1872(明治5)年にそれまでバンクとされていた言葉の訳語を「銀行」と定めました。

1873(明治6)年5月に33歳で大蔵省を退官した後、6月になって日本橋兜町に「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」を設立して総監役(後に頭取)に就任し、実業家としてデビューし、『論語』を実業と結びつけようと決心しました。

この銀行は日本最初の国立銀行で、文明開化の象徴であり、「合本主義」を体現するものでした。

渋沢栄一の銀行に対する考え方は、第一国立銀行の株主を募集した時の「第一国立銀行株主募集広告文」を見るとわかります。

この広告文は「夫れ銀行は猶ほ洪河の如し」という漢文調ですので、現代語訳を挙げておきます。

《そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りがない。しかしまだ銀行に集ってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ポタポタ垂れているシズクと変りはない。時には巨商豪農の倉の中にかくれていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐にひそんでいたりする。それでは折角人を利し国を富ませる能力があっても、その効果はあらわれない。万里を流れる勢いがあっても、土手や岡にさまたげられて進むことは出来ない。しかし銀行を立てて巧みに流れ道を開くと、倉や懐にあった金が寄り集まって、非常に多額の資金となるから、おかげで貿易も繁盛するし、産物もふえるし、工業も発達するし、学術も進歩するし、道路も便利になるし、すべて国の状態は趣きを変える。(略)》(渋沢英雄『父渋沢栄一 新版』)

渋沢栄一の「合本主義」は資本主義のことですが、相違点もあります。

資本主義は、資本がサービスの生産・流通の主体となる経済体制です。

一方、合本主義は、公益を追求する使命に最も適した人材と資本を集めて事業を推進させるという考え方です。

合本主義によって作られた会社が「合本組織」です。

合本主義は資本主義よりも強い規範を伴い、公益の追求が主軸に置かれています。

合本主義における重要な3要素は「設立目的・使命」「人材とそのネットワーク」「資本」です。

渋沢栄一が求めたのは、利益を最大化するために経営を独占かつ独裁的な形で行うことではなく、公益を追求して日本の近代化を進めることでした。

渋沢栄一は33歳で実業家となり、合本組織を国内に普及させて官尊民卑の弊を根本的に除去しようとして、約500の企業の創設・育成に関わり、同時に約600の教育機関・社会公共事業の支援や民間外交にも尽力していきます。

このような流れの中で渋沢栄一は三島中洲と出会いました。

1883(明治16)年43歳の時に、亡くなった先妻・千代(尾高惇忠の妹)の墓碑銘の撰文を三島中洲に依頼しました。

このことを契機に三島中洲との親交が続き、より親交を深めたのは1909(明治42)年以降といわれています。

三島中洲は「論語と算盤図」を見て、1909年12月に「義利合一論」の考えを示した文章(「論語算盤の図に題して渋沢男の古稀を賀す」)を渋沢栄一に送っています。

「義利合一論」とは、義と利を分けて考えるのではなく、利は義から生まれるという考え方です。

この文章を読んで、渋沢栄一はつぎのように述べています。

《ただ空理に趨(はし)り虚栄に赴(おもむ)く国民は、決して真理の発達をなすものではない。ゆえに自分等はなるべく政治界、軍事界などがただ跋扈(ばっこ)せずに、実業界がなるべく力を張るように希望する。これはすなわち物を増殖する務めである。これが完全でなければ国の富はなさぬ。その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである。》(「処世と信条」)

また、別の章でつぎのように述べています。

《余は平生(へいぜい)の経験から、自己の説として、「論語と算盤は一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。》(「仁義と富貴」)

「論語」は「仁義道徳」、「算盤」は「生産殖利(経済の富)」を指し、両者を一致させ調和させることが自分の務めだと渋沢栄一は考えています。

「道徳経済合一説」は三島中洲の「義利合一論」と共通する考え方です。

渋沢栄一は1925(大正14)年10月に出版した『論語講義』(全2冊、筆述:尾立維孝、二松学舎出版部)の中で、つぎのように述べています。

《先生(=三島中洲)のお説(=義理合一論)は、余が平生(へいぜい)胸中に懐く経済道徳説を、経書によって確固たる根拠のあるものにして下されたもので、余の論語算盤は、これによって一層光彩を添えたような気がするのである。》(「里仁第四」)

三島中洲は1886(明治19)年に東京学士会院で「義理合一論」についての講演を行っています。

この中で、朱子学によって「義」と「利」が峻別されるようになったが、陽明学的立場からは「義」と「利」は離れていず、「利」が貶められてきた状況を打開するべきだと主張しました。

江戸時代は、藤原惺窩の門人・林羅山が政治顧問として徳川将軍家に仕え、儒学(朱子学)が徳川幕藩体制を支える思想になり、個々人の修養に重心が置かれました。

士農工商という絶対的な身分制度の中で、「義」(政治・思想・道徳)を担う支配者である武士は、「利」(経済・利潤追求)を蔑視して、これを被支配民である農工商に任せ、彼らの生み出した利益の上前を撥ねていました。

明治時代になり、四民平等が実現して武士がいなくなっても、官尊民卑という弊がありました。

「官」は金銭を蔑視して民業を軽視し、「民」は理念や倫理に疎くて卑屈であるという現状がありました。

これは教育に起因しています。

渋沢栄一は『青淵回顧録』の中で、つぎのように述べています。

《私共の少青年時代に受けた教育は、悉(ことごと)く漢籍に依る支那の学問であつた。旧幕時代には一般に漢籍が教育の全部の如く信ぜられて居つたから、江戸は勿論、地方に於いても教育のある人と云へば漢籍の出来る人で、先づ四書五経に依つて修身、斉家、治国、平天下の四大眼目を学び、之れに依つて世に立たねばならないとされたもので、主君に仕へるにしても、社会並びに朋友に接するに就いても、地方政治に携はる上に於いても、結局の目的は天下を平かにするといふ処にあつた。(略)されば当時四民の上に立つ政治的教育方面はあつたけれども、農、工、商等に従事する者の教育といふものは殆んど皆無であつて僅(わずか)に『塵劫記(じんこうき)』といふ書に依つて算術の初歩を学ぶとか『商売往来』に依り商売の道を知る程度にすぎなかつた。加ふるに支配階級である武士は、生産殖利の事に就いては自身では少しも心配せず、単に他人の作つた物を徴収すればよいといふ観念を有つて居た。之れが封建時代に於ける大体の制度である。》

明治維新後、「義」を担う下級武士たちは新政府の高官となりました。

「修身、斉家、治国、平天下の四大眼目」を学んでいたので、うまく政治を受け継ぐことができました。

しかし、「利(生産殖利)」に関しては「他人の作つた物を徴収すればよい」という考えが根強くありました。

明治時代になっても「義」と「利」の峻別は続いていたのです。

このような背景の中で、渋沢栄一は三島中洲と親交を深めていき、ともに道徳(義)と経済(利)に関する考え方を培っていきました。

「道徳経済合一説(義利合一論)」とは、道徳(義)だけでも経済(利)だけでもだめで、道徳(義)と経済(利)のバランス・調和が大切だということです。

「道徳経済合一説」は「義理合一論」に論拠を持つといえます。

三島中洲は、晩年になると渋沢栄一に二松学舎の経営を委ねていき、1919(大正8)年5月に、享年88歳で永眠しました。

79歳の渋沢栄一は、三島中洲の葬儀に際して告別の辞を読み、同年8月、第3代二松学舎舎長・理事に就任しました。

1923(大正12)年、渋沢栄一は『論語講義』の中で、つぎのように述べています。

《学問は学問のための学問にあらず、人間日常生活の指南者たらんがための学問なり。すなわち学問は人生処世上の規準なり。ゆえに実際を離れたる学問なきと同時に、学問を離れたる実業もまた存せざるなり。ここを以て余は平生論語と算盤説を唱え実業を論語に一致せしめんと企図し、余が尊信する故三島中洲先生も同工異曲とでもいうべきか、論語を経済に合一せしめんと説かれき。/これを要するに中洲先生も余も共に学問と事業を結びつけて、睽離(けいり)せしめず、以て知行合一の極致に到達せんと欲するなり。余は実にこの知行合一の見地に立ちて、論語を咀嚼(そしゃく)し八十四歳の今日まで公私内外の規準として遵奉し、国を富まし国を強くし以て天下を平らかにするに努力したり。他の同胞実業家にも論語をよく読んで貰い、民間に知行合一の実業家ぞくぞく輩出して、品位の高き先覚者が出現せんことを望むのである。》(論語総説)

これまで、渋沢栄一は実業家として算盤(実業、経済)を論語(学問)に結び付け、今は亡き三島中洲は漢学者として論語(学問)を算盤(実業、経済)に合一させようと努力してきました。

そして、83歳(数え年84歳)の渋沢栄一は、論語と算盤が合一した品位の高い実業家が続々と世に出てくることを望んでいます。

1928(昭和3)年10月1日に、渋沢栄一は米寿祝賀会で演説をしました。

この演説で、つぎの3つのことを強調しました。

第1は、1856(安政3〉年16歳の時、岡部藩の陣屋で代官から受けた屈辱が自分の出発点になったことです。

渋沢栄一は、江戸時代末期の1840(天保11)年に、武蔵国榛沢(はんざわ)郡安部領血洗島(ちあらいじま)村(現・埼玉県深谷市血洗島)で、名字帯刀を許された農民の家に生まれました。

養蚕や藍玉作りとその販売だけでなく、雑貨屋・質屋業も営む裕福な家でした。

この家では年貢として、米ではなく金銭で納税していました。

渋沢栄一は、この血洗島を所領していた領主・安部摂津守の岡部の陣屋に父の代理で行くと、如才なく人を軽蔑するような感じの代官に御用金として五百両を要求されました。

この領主は貧乏だったので、姫の嫁入りや若殿の元服や先祖の法要などの時になると、領地の富裕な農民から御用金を徴収し、当座の費用にあてていました。

渋沢栄一は「御用の趣を聞いてこいと父からいいつけられたまでだから、御用金の高はかしこまりましたが、一応父に申し聞いて、さらにお受けにまかり出ます。」と答えました。

すると、代官に「いったん帰ってまた来るというような、緩慢(てぬる)なことは承知せぬ。万一、父が不承知というなら、なんとでもこのほうから言い訳をするから、ただちに承知したという挨拶をしろ。」と言われました。

さらに拒否すると、「いやそんなわけの分からぬことはない、貴様はつまらぬ男だ。」と言われて、人格を認められないだけでなく、ひどく叱られ嘲弄されました。

この理不尽な経験から、初めて幕府の政治(封建制度)がよくないと思い、階級差別のない平等な社会を実現しよう、農民をやめて立派な人間になろうと考えました。

その後、尊王攘夷思想に共鳴して、1863(文久3)年23歳の時に、暴挙(高崎城乗っ取り、横浜焼き討ち)を企てますが、従兄・尾高長七郎との激論の末、断念しました。

そして、江戸城滞在中に知遇を得た一橋家用人平岡円四郎の家来の名義を借り、京都に出奔しました。

翌年、攘夷計画が幕府に知られ警戒されますが、平岡円四郎に救われ、一橋家に仕えました。

第2は、1867(慶応3)年27歳の時、フランス滞在時に目撃した軍人と銀行家との間の対等な関係に深く感動したことです。

1866(慶応2)年、徳川慶喜が征夷大将軍となり、26歳の渋沢栄一は幕臣となり、徳川慶喜の弟・昭武(あきたけ)のフランス行きの世話係に抜擢されました。

1867(慶応3)年、徳川昭武(民部公子)を団長とする遣仏使節団に加わって渡欧し、第2回パリ万国博覧会を見学し、その後は欧州各国を訪問して、約1年6カ月の間、西洋の生活を体験しました。

徳川昭武のフランスでの世話係として、銀行家ポール・フリュリ=エラール(1836~1913)と陸軍大佐のヴィレットが付いていました。

渋沢栄一は、パリでこの2人が対等に意見を交わす姿を見て、フランスの官民平等に大変驚きました。

このようなことは、厳しい身分制がある日本ではありえないことだからです。

第3は、第1と第2の経験から官尊民卑の弊を打破するために一生を捧げたことです。

この演説は渋沢栄一の88年の生涯の総括といえます。

以上のように、渋沢栄一は欧米の民主主義と資本主義のシステムを日本に取り入れるだけでなく、三島中洲との約40年以上にわたる親交の中で、『論語』に基づく東洋道徳を生かして「道徳経済合一説」を提唱し、近代の日本社会の形成に大きな貢献を果たしました。

渋沢栄一は1931(昭和6)年に91歳で永眠し、日本は戦争へと向かいましたが、1945(昭和20)年に戦争が終わり、21世紀になって、「道徳経済合一説」は大谷翔平選手にも大きな影響を与えることになるのです。

2 大谷翔平における渋沢栄一との出会い

大谷翔平選手と渋沢栄一をつないだ人は栗山英樹氏です。

栗山英樹氏の『育てる力――栗山英樹『論語と算盤』の教え』(宝島社)を主に参考にして、『論語と算盤』との関わりについてまとめておきましょう。

栗山英樹氏は、1984(昭和59)年に内野手として東京ヤクルトスワローズに入団しましたが、1990(平成2)年に現役を引退し、野球解説者として活躍しました。

2004(平成16)年に40代で白鷗大学の教壇に立った頃、初めて渋沢栄一の『論語と算盤』を読み、渋沢栄一の偉業に畏怖しました。

2011(平成23)年11月に北海道日本ハムファイターズの監督に就任しました。

2012(平成24)年に『論語と算盤』を若手選手に手渡し、この本を題材にしたミーティングを始め、パシフィック・リーグを制覇しました。

同年、12月にドラフトで投打「二刀流」の大谷翔平選手を1位指名して獲得しました。

2013(平成25)年に、入団2年目の大谷翔平選手に『論語と算盤』を手渡しました。

大谷翔平選手は目標達成シートの目標チャートに「『論語と算盤』を読む」と書き込みました。

同年、日本ハムファイターズがシーズンを最下位で終えて、栗山英樹氏は『論語と算盤』と真の出会いをし、この1冊こそ「現代の日本人を導く書」だと確信しました。

2016(平成28)年、日本ハムファイターズが2度目のパシフィック・リーグを制覇し、そして日本一に輝きました。

栗山英樹氏は2021(令和3)年11月に監督を退任しますが、12月に野球日本代表「侍ジャパン」トップチーム監督に就任することになって、大谷翔平選手らのMLB日本人選手の招聘を決めました。

2023(令和5)年3月、栗山英樹監督の日本はWBC(World Baseball Classic)の決勝戦でアメリカに勝ち、優勝しました。

決勝戦の9回表2アウトにおける、大谷翔平選手とマイク・トラウト選手の対決は、多くの人々の感動を呼びました。

WBCにおいても『論語と算盤』の考え方が生かされました。

同年5月、栗山英樹氏は日本代表監督を退任しました。

栗山英樹氏は『育てる力』の「まえがき」で、『論語と算盤』には「組織論の真髄」が書かれていて、「人を育て、強い組織を作り上げるための核となる考え」は、「論語(=道徳)と算盤(=経済)」を一致させ、「誠実な振る舞い」や、「自分の利益でなく、他者の利益を優先して考えること」が安定的かつ持続的な社会の繫栄に繋がるということだ、と述べています。

『論語と算盤』は「組織論の真髄」で「人間力」を養うことができる書であり、「現代の日本人を導く書」なのです。

2013(平成25)年に、大谷翔平選手は栗山英樹氏を通して渋沢栄一の『論語と算盤』と出会い、目標達成シートに「『論語と算盤』を読む」と書き込みました。

そして、2017(平成29)年にMLBに移籍した後、2018(平成30)年に出版された『育てる力』を『論語と算盤』の実践の書として読んでいるはずです。

ここまでが【前編】です。

次回のブログ(☆「大谷翔平は渋沢栄一から何を学んだか?――道徳経済合一説の重要性――【後編】」)もぜひご覧ください。

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