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【HIEプレップスクール】21世紀に必要なリベラルアーツ教育とは? ――東京工業大学と石牟礼道子――【後編】

   

皆さん、こんにちは。

両国校国語科講師の福島です。

現在、大学でリベラルアーツ教育が重要視されています。

それはなぜでしょうか。

このことについて東京工業大学(以下、東工大)と石牟礼道子とのつながりを通して、【前編】【後編】の2回にわたって考えてみます。

今回は【後編】です。

前回の【前編】(「1.東京工業大学と『苦海浄土』の世界」)と併せてお読みください。

 

2.東京工業大学とリベラルアーツ教育

 

2020年2月1日、東工大はリベラルアーツ系の研究組織「未来の人類研究センター」を創設しました。

東工大はもともと教養重視の伝統を持っていました。

戦後の1946年に和田小六学長が中心となって、日本の再生を担う学生たちの人間性を磨くために「教養教育」を始めました。

たしかに、この教育は日本の高度経済成長を支えるために大きな役割を果たしました。

しかし、経済成長を最優先するという問題もありました。

多くの理工系の教員や研究者は自分の専門領域の研究で経済界のニーズに応えるために「すぐに役立つ」ものを重視していました。

1950年代後半に行われた、東工大の清浦雷作教授による水俣病研究も、こうした風潮が大きく関係していたのでしょう。

この風潮は高度経済成長期とバブル経済期に日本全土を覆い、公害や環境破壊が深刻化しました。

さらに、1991年の大学設置基準の大綱化を契機に、多くの大学では教養部が解体され、教養教育(一般教育)科目の縮小が進み、専門教育に重点が置かれるようになっていきました。

こうした風潮の反動でしょうか、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教事件が起きました。

この事件には、優秀な理工系や医学系の大学(東大、東工大、慶應義塾大、早稲田大など)の出身者が多く関わっていました。

特に1995年3月20日の地下鉄サリン事件は衝撃的でした。

死者13人、負傷者6300人以上という大惨事となり、慶應義塾大学病院の心臓外科医であった信者がこの事件の実行犯の一人であったことが明らかになったからです。

この事件とこの人の詳細は、林郁夫『オウムと私』(文藝春秋、1998・9)と佐木隆三『慟哭―小説・林郁夫裁判』(講談社、2004・2)を読むとよくわかります。

ちなみに、オウム真理教の元代表・教祖は熊本県八代市に生まれ、長兄と同様に視覚障害者で、上京する前は盲学校に通っていました。

藤原新也氏は『黄泉の犬』(文藝春秋、2006・10)の中で、彼の視覚障害は水俣病の影響ではないかという説を立てています。

2011年3月11日には、東北地方太平洋沖地震による地震動と津波の影響によって、福島第一原子力発電所で大きな事故が起き、原発の安全神話が崩壊しました。

原発の汚染水処理や廃炉作業などの難しい問題がいまだに残っています。 

戦後の高度経済成長とバブル経済の裏には深い闇があり、それは今も形を変えて続いていて、さらに深くなりつつあるのです。

「AERA」(2016年6月6日号)によれば、上田紀行氏(東工大リベラルアーツ研究教育院長)は、自身のゼミに参加した慶應義塾大学の女子学生に東工大生のイメージを尋ねると、彼女は「生身の人間のことを話しているのに、それがロボットであっても全く変わらないような言い方で語る人たち」と答えました。

つまり、典型的な東工大生は、賢いけれど他者に共感できない優等生のイメージがあったのです。

上田氏は、たしかに東工大生は「決められた一定のシステムの中で効率よく最適解を出そうとする『優等生』」が多く、「システムそのものを改革したり、イノベーションをリードする人材」が少ない、と言います。

こうした問題点を改めるために、2016年度から東工大は大胆な大学改革を始めました。

「理学院」「情報理工学院」など六つの理工系学院とリベラルアーツ研究教育院を新設しました。

学部と大学院を合体した「学院」を創設することによって、教育力、研究力を強化するだけでなく、理工系大学でありながら、博士課程までの一貫したリベラルアーツ教育を行っています。

「志を育む」をテーマに「東工大立志プロジェクト」で徹底的に議論し、問題意識を発表し、「教養卒論」を書いて、自分の専門と社会、未来とのかかわりを表現しています。

上田氏によれば、東工大は文理融合の改革によって「すぐに役立つ」ことだけでなく「より良き社会のあり方を探究し、提示する」ことも重要視し、深い人間性と社会性を持った人間を育成することを心がけているのです。

2020年に創設された人文系の研究組織「未来の人類研究センター」は、こうした大学改革の流れに沿っています。

最初の5年間は、「利他」をキーワードに、人間のあり方、社会のあり方を再定義する「利他プロジェクト」を推し進める予定です。

自分でないもののために行動する「利他」の視点から、人類について、社会について、科学技術について、見つめなおしていきます。

この「利他プロジェクト」では、石牟礼道子氏の文学が取り上げられ、水俣病事件について深く論じられることでしょう。

『苦海浄土』は「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」(第一部・あとがき(文庫版))であり、水俣病の悲惨さだけでなく、人間の尊厳や人々と自然との深いつながりも描かれていて、絶望だけでなく希望もあります。

たとえば、水俣病患者である坂上ゆきは、もつれる口で次のように語ります。

《晩にいちばん想うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。

春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよったな。/海の中にも名所のあっとばい。「茶碗が鼻」に「はだか瀬」に「くろの瀬戸」「ししの島」。/ぐるっとまわればうちたちのなれた鼻でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の臭いとはちがうばい。》(第一部・第三章)

「会社」とは熊本県のチッソ水俣工場を指します。

このあとも、海の豊かさを語り続けます。

《海の底の景色も陸(おか)の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。》(第一部・第三章)

漁師の妻であるゆきにとって、海は「生類(しょうるい)のみやこ」(第三部・序詩)なのです。

人類は自然の大いなる贈与によって生かされており、「生類」の一部であるという自覚が必要であることを私たちは教えられます。

そして、生類とそれにつながった人々の「いのち」が「会社」によってひどく痛めつけられてしまったことを実感し、胸が張り裂けそうになります。

宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本(Social Common Capital)」の重要性を痛切に感じます。

これは、「誰にとっても等しく大事なもの」を「社会にとっての共通財産」として大切にしようということです。

主流派の近代経済学、特に市場原理主義を厳しく批判した宇沢氏は、1968年に帰国した後、水俣病事件に大きなショックを受け、原田正純氏や宇井純氏らの影響を受けながら公害を分析する理論を構築していきました。

そして、社会的共通資本を正しく運営管理するためにはリベラルアーツに基づく教育が大変重要であることを指摘しています。

『苦海浄土』は東工大生だけでなく人類の必読書だといえます。

『苦海浄土』が読みづらい場合、『水はみどろの宮』(福音館文庫、2016・3)や『椿の海の記』(河出文庫、2013・4)から読み始めることをおすすめします。

前者はメルヘン、後者は石牟礼氏の幼少時の話で、両者とも美しい自然との交感が中心に描かれているからです。

 

3.リベラルアーツ教育の必要性

 

リベラルアーツ教育は東工大だけでなく、すべての教育機関に必要だと私は考えています。

なぜなら、21世紀の人類は、戦争・テロ、環境破壊、社会的格差、病気蔓延などの緊急に解決しなければならない課題に直面していて、地球的規模でSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の達成に取り組むことが要請されているからです。

たとえば、2018年に発覚した医学部不正入試問題がそうです。

医学部入試で、女性や多浪生を不利に扱う、特定の受験生を優遇する、という不正をしていた大学(主に私立大学)が少なからず存在していることが、明らかになりました。

日本の医学部には社会的格差という闇がいまだに根強くあるのです。

大学側が正当な理由を明示して合格の条件を明確に公表していれば、不正とは言えないでしょう。

それをしなかったのは社会的に不適切だという認識があったからです。

日本国憲法第14条第1項と第26条第1項を受けて教育基本法第4条第1項には「(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」とあり、日本国憲法第23条には「(学問の自由)学問の自由は、これを保障する。」とありますので、大学入試で正当な理由なく性別や年齢や経歴で受験生を不利に扱ったり優遇したりすることは日本国憲法と教育基本法に違反していると考えられます。

私は医歯薬看護系の大学の受験指導(小論文・面接)もしています。

医学部で不正入試があるという話は薄々ながら聞いたことがありましたが、試験(学科・小論文・面接など)の採点を客観的ではなく恣意的にしていた大学が本当にあったことを知り、愕然としました。

「大学には裏事情があるので不正入試は仕方がない。」と言う人がいるかもしれません。

しかし、欧米では女性医師の比率が日本よりも高いことを考慮に入れれば、日本の大学医学部が高度経済成長期からの闇をずっと引きずっていて、実質的な改革をしてこなかったことのほうに罪があります。

これはけっして許されることではありません

2019年12月17日に、世界経済フォーラム(WEF:World Economic Forum)による「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」(the Global Gender Gap Report 2020)2019年版が発表されました。

ジェンダー・ギャップ指数とは、経済・教育・健康・政治の4分野14項目のデータをもとにして、各国の男女の格差を分析した指数で、純粋に男女差だけに注目して評価したものです。 

日本のジェンダー・ギャップ指数は、調査対象となった世界153カ国のうち、121位(2018年は110位)で過去最低を更新し、主要7カ国(G7)で最低でした。

SDGsでいえば、日本の医学部だけでなく日本全体が、目標5「ジェンダー平等を実現しよう」と目標10「人や国の不平等をなくそう」を実現することができていないといえます。

したがって、日本の大学医学部は医療界だけでなく社会も巻き込んで、東工大のような抜本的な改革をすることが必要で、実質的なリベラルアーツ教育にも力を入れるべきです。

本来、学問は人間を自由へと解き放つ人間形成のためにあります。

2018年2月10日に90歳で亡くなった石牟礼道子氏は、大学には進学しませんでしたが、様々な交流や交感を通してリベラルアーツを学び続けたと言えるでしょう。

『苦海浄土』は医師たちとの交流の中での学びが生かされています。

特に細川一氏との交流が大切です。

石牟礼氏は「細川先生がいて下さるというだけで、私も何とか生きていて。あの先生、とってもおつらかったであろうと思うんです。」、「人間いかに生きるべきかということを本当に無言で教えて下さって、私にとってはかけがえのないお方だったんです」(「水上勉との対談(1970年)水俣病の証言」)と述べています。

チッソ水俣工場附属病院長であった細川氏は、1959年10月の「ネコ400号」実験で水俣病の原因に気づきましたが、チッソの説得によってそれを公表できずにいました。

1962年にチッソを辞め、愛媛県に帰郷して病院で診療をし、1965年に新潟水俣病(第二水俣病)の現地調査に参加しました。

1970年に肺がんのために東京がん研究病院に入院しました。

入院中に、患者側がチッソに補償を求めて提訴した水俣病裁判の証人として尋問を受け、隠蔽していた「ネコ400号」実験について証言し、同年10月13日に69歳で亡くなりました。

この証言が大きな力となって、1973年3月20日に水俣病患者側が勝訴しました。

細川氏の晩年のメモには「人命は生産より優先するということを企業全体に要望する」と書かれています。 

こうした細川氏との交流が『苦海浄土』に生かされています。

この作品は、生類とそれにつながった人々の「いのち」をひどく傷めつける方向に学問を使ってしまう、倫理意識の欠如した利己的な近代人に対する警鐘でもあるのです。

石牟礼氏は、21世紀は「今こそ日本人の精神の深さ、究極の英知というか、人類愛を持っているということを示すべきだ」〈「近代の果て」、『綾蝶の記』)と述べています。

近代人は近代経済学のモデルである「経済人(homo economicus)」と通じています。

私たちは、自分や一部の人だけのために目先の経済的合理性を最優先する利己的な近代人からの転換が求められています。

若松英輔氏によれば、石牟礼氏は『苦海浄土』を書いているときの心境を「荘厳(しょうごん)されているように感じました」と表現しました。

この「荘厳」の働きで生類と人間は深い闇から解き放たれるのではないでしょうか。

私はいつもリベラルアーツを念頭に置いて授業をしています。

たとえば、医系小論文の授業では、小論文の書き方、医療・現代の基礎知識、出題の傾向と対策だけを教えているのではありません。

水俣病を発見して水俣裁判に貢献した細川一氏、「いのちの共生」が目標の水俣学を提唱した原田正純氏、ハンセン病患者に奉仕した神谷美恵子氏、パキスタンとアフガニスタンで人道支援をした中村哲氏などの、国際的視野を持ち学問領域の壁を越えて活動した医師たちの紹介や現代の医療問題の考察を通して本来的な倫理意識を養い、深い人間性と社会性を持った医師の育成を心がけています。

医学部入試での小論文は副次的なものと捉えられがちですが、本当はリベラルアーツにつながる大切なものです。

現在、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行が大きな問題になっていて、それに伴い、正しい情報の不足、経済の混乱、いわれなき差別、危機管理意識の低さなどの問題も生じています。

このような問題の解決のためにもリベラルアーツ教育は必要です。

皆さんも、リベラルアーツを意識して学び続けてほしいと思います。

そうすれば必ず道は開けます。

さあ、持続可能な未来の創造に向けて、一緒にがんばりましょう!

 

参考文献

 

・池上彰「今なぜ東工大生に教養が求められるのか 池上彰のリベラルアーツ教育のススメ」、「東京工業大学リベラルアーツ研究教育院News」(2019.10.28)

[https://educ.titech.ac.jp/ila/news/2019_10/058057.html](最終検索日:2020年1月25日)

・リベラルアーツ研究教育院「「未来の人類研究センター」創設のお知らせ」、「東京工業大学リベラルアーツ研究教育院News」(2020.年1月7日)

[https://educ.titech.ac.jp/ila/news/2020_01/058424.html](最終検索日:2020年1月25日)

・一般財団法人水俣病センター相思社「水俣病関連詳細年表」

[www.soshisha.org/jp/about_md/chronological_table](最終検索日:2020年1月25日)

・JOICFP(ジョイセフ)「2019年「ジェンダー・ギャップ指数」日本が110位から121位へ(153カ国中)」(2019年12月19日)

[https://www.joicfp.or.jp/jpn/2019/12/19/44893/](最終検索日:2020年1月25日)

・石牟礼道子『新装版 苦海浄土―わが水俣病』(講談社文庫、2004年7月)

・『石牟礼道子全集・不知火』第1・2巻(藤原書店、2004年4月)

・石牟礼道子『苦海浄土 全三部』(藤原書店、2016年8月)

・石牟礼道子『綾蝶の記』(平凡社、2018年6月)

・上田紀行「論考2016 大学の役割とは」、「長崎新聞」(2016年4月18日)

・藤生明「東工大集う文系の達人 中島岳志氏・磯崎憲一郎氏ら次々教授陣に」、「朝日新聞」(2016年5月16日夕刊)

・「70年ぶり大改革始動 東工大生、志立て世界へ」、「日本経済新聞」(2016年6月15日)

・上田紀行「ノーベル賞の陰に 真理への憧れ育てて」、「河北新聞」(2016年10月18日)

・宮嶋加菜子「➁進学特集 正解ない問い深く向き合う、 東京工業大学」、「朝日新聞」(2016年10月25日)

・AERA編集部・石臥薫子・鎌田倫子・古田真梨子「変化を捉えて続々誕生 「未来の看板学部」狙う12の学部・研究室」、「AERA」(2016年6月6日号、朝日新聞出版)

・宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波書店、2000年11月)

 

 

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